第五話 半魚人がいなくなってからしばらく経ったある日

今年も桜が散り、会社に新入社員が入り、社内に緊張感があふれてきた。 俺も部長になり、仕事に対する余裕も出て、今年には2人目の子供でも作るか、 上が女の子やから、下は男の子がええなー、と、今朝嫁さんと話せるぐらいに なった。 子供は2歳。かわいい盛り。嫁さんは、俺より5つ下。若くてかわいい。幸せと いうものは、こういうものなんだろうな、と思う。 もう、半魚人との数ヶ月を思い出すことは、ほとんどなかった。 「部長、この見積もりなんですけれど」 「おう。…あ、ちょっと待って」 今年入ってきた新入社員が、俺の元に足早にかけてくる時に、運悪く、俺の ポケットが細かく振動した。携帯電話だ。この振動の仕方は、家から。 俺は、右手をちょっとあげて、新入社員にわびながら、通話ボタンを押した。 「おう、何や」 「今大丈夫?」 「何や。手短に頼むわ」 嫁さんが、何かを迷うような空気を漂わせた。 「…どうかした?」 「…あの…ペット…飼っちゃダメかしら…」 「はぁ?」 「お、お買い物に行ったら、箱に入って捨てられていたのよ…。私、それを  ついうっかり開けちゃって…目があっちゃって、つ、ついてこられちゃって…  情が移って…。だから飼っていい?」 「はぁ?」 彼女も混乱しているようで、一生懸命俺に伝えようとしてはいるのだが、いかん せん、まったく状況が分からない。これは困った。俺の目の前には、新入社員が 書類を持ったまま立っている。席に戻っておけ、と手をふったら、手をふりかえ されてしまった。意思疎通がどちらともうまくいかない。 「犬か? まぁ、飼ってええで? うちのマンション、ペットOKやし。  そのかわり、世話はお前がしろよ?」 「え、ええ、もちろん。犬じゃないけど」 「え、何? 凶暴なんちゃうやろな?」 「大丈夫。すごく人になついているし、かしこいわ。でも種類は…何だろう」 「…何か分からんもん、俺らのペットにするんか。それ、大丈夫か?」 「…形的には、シーモンキーだと思うんだけれど…こんなに大きいの、みたこと  なくって」 嫁さんの言葉に、俺は頭を抱えた。シーモンキーは、人になついたりかしこかったり するのか。 「…そりゃ、帰る時に楽しみにしとくわ」 新入社員が、俺の会話の終わりそうな雰囲気に気づいたのか、一歩近づいてきた。 「…どんなんかだけ、教えといて?」 俺は、何となく目の前の新入社員にイジワルをしたくなって、会話をひきのばした。 新入社員がまた、じっとこちらを見たまま動かなくなる。 俺は面白くて、半笑いになった。しかし、耳に届いた嫁さんの言葉に、それどころ ではなくなった。 「…どんなって…。白くて大きいわ。あなたより少し小さいくらいよ」 「デカイやん! 何やねん、シーモンキーの巨大なのって!」 俺の声に、新入社員がビクッとなった。 俺も、『シーモンキーの巨大なの』なんていう気持ち悪い単語を、会社で口走る ことになるとは思わなかったので、うろたえた。新入社員だけでなく、オフィス 内の空気が、明らかにこちらに向いている。 「…帰るの、楽しみにしてるわ…」 「う、うん…。ごめんね、こんなことで電話して…」 彼女がそう言った時に、受話器の向こうから、嫁さん以外の声が漏れてきた。 『ママ、ママ』 娘の声だ。どうやら、嫁さんの足元でじゃれているらしい。ごきげんだ。 何となく、なごむ。 『ほらお嬢ちゃん、ママちゃん電話中やから、こっちで一緒に遊ぼうな』 『わー、パーパパーパ』 俺は、凍りついた。今の声は…。 「半魚人パパて! そんな!」 俺の叫びに、新入社員はまわれ右をして、自分の席に戻っていった。 「と…とりあえず、帰ったら見てみて?」 嫁さんもどうやらびっくりしたらしく、少しおびえながら、そう言った。 「そ、そうやな…。風呂場にでも放り込んでおいてくれ…」 「分かったわ。ところであなた、今日の晩御飯、何がいい?」 俺は、頭をかきむしりながら、こう言った。 「鍋で」 電話を切ったら、新入社員が机の上で書類を見直すふりをしながら、俺を チラチラと見ているのと目があった。俺は、静かに新入社員を呼んだ。 「…お前、半魚人っておると思うか?」 新入社員が『気が狂ったかこの人は』という目で俺を見たので、俺は『やっぱり いい』と手をふった。手をふりかえされた。無視した。 嫁さんが風呂掃除をさぼることを、今度ばかりは少し恨みたくなった。
終わり

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