第1話 とりあえず、罵倒してください

 暑い中、外に出る機会が無く、ぼんやりと過ごしていたら、夏休みが一週間過ぎて  しまった。このままではいけない。若いのに、外に出ないで一週間、クーラーにあたる  だけの生活なんて、してはいけない。そう考えた僕は、風呂に入り、着替えて、ドアを  開けた。誰か、友人に電話して、飲みに行こう。ビアガーデンあたりに行こう。  ガッ  ドアが、半分開いたところで、何かやわらかいものにあたった。一度ひいて、もう一度  開けてみる。やはり何かにあたる。そっと、半開きのドアから顔を出すと、人が倒れて  いた。  「何ですか、あなた」  「…パワーをください…」  僕は、ドアを閉めた。  そして、しばらくしてからドアを開けた。まだいる。ドアが半分しか開かない。出れない。  頭だけ出して、よくよく観察してみると、体全体でストッパーになっているのは、男だっ  た。パーマを失敗したような、おかしな髪型をしている。黒ブチの、度の強そうなメガネ  をかけているが、洗っていないのか、真っ白に汚れていた。小柄だから、拳法の使い手  でもない限り、ケンカしたら僕の方が強いと思う。男は、少し薄汚れてはいるが、白い  ピッタリした…そう、体操選手が着るような服を着て、地面に横になっていた。間違い  ない。変態か、頭のおかしい人だ。  「どいてください」  男は、ゆっくりした動作で頭をひねって、僕を見た。そして、アウアウと何か唱えた後、  こう言った。  「パワーが無い……んです…」  「パワーですか…。おなかがすいたとかですか? 救急車呼びましょうか?」  「いえ…、罵倒してください」  「はぁ?」  男は、ゴロリと転がって、体の向きを変えた。側頭部を地面にくっつけているため、  陰毛のようなパーマが、ほこりまみれになっている。  「…罵倒を…。僕、罵倒してもらうとパワーになるんです…」  僕は悟った。これは、SMプレイの一環に違いない。このボロアパートには、家賃が  安いため、何人もの変人が住み着いている。この人は、その住人の誰かに、こうした  SMプレイを強いられているのだ。羞恥プレイというやつだ。僕は、つい、男の股間  に目をやってしまった。  「どうか、罵倒してください…」  いたって、男はまじめなようだった。正常な状態…というか、むしろ衰弱しているよう  に見える。何だか僕は、男がかわいそうになって、話にのってあげることにした。  「罵倒って…例えばどんな…?」  「例えば…」男は、やおらムクリと起き上がり、朗々とした声で「『お前、そんな汚ら  しい格好で、俺様に罵倒してもらおうなんて、百年早いんだ。汚らわしい! 汚らわ  しい!』」最後の汚らわしい、のところは、足で踏みつける真似をした。「…みたいな  感じで…」そして、また倒れた。ヒューヒュー息をしている。どうやら、相当の体力を  使っているらしい。  僕は、半開きのドアから足を出して、男の頭をこづいた。  「…えーと…『このブタめ』?」  男は、僕の目をじっと見た。そして、低い声で言った。  「…あなた、そんなありふれた罵倒で、僕が満足するとお思いですか…」  すごく嫌な気分になった。ドアを閉めようかと思ったが、男は僕に期待しているらしく、  じっとこちらを見ている。僕はもう一度挑戦してみた。  「……趣味の悪いパーマですね」  男は、カッと目を見開いた。そして、今までの弱弱しさが嘘のように、やおらシャキ  シャキとした動きで起き上がり、  「ぃよっしっ! あなたの罵倒で、元気が出ました。ありがとうございますっ!」  と、すごいスピードで頭を下げると、立ち去った。いや、立ち去ろうとした。  しかし、アパートの階段を下りようとしたところで、グラリと体がかしいだ。「あ」と  いう声しか出せなかった僕には、残念ながら、男が階段を落ちるところまでしか見え  なかった。「あー」という気の抜けたような声と、連続した鈍い音が聞こえたので、  男がどうなったかは分かった。僕は、開くようになったドアから出て、階段の上から  下を見てみた。  男は、階段の一番下の段から4段目ぐらいにかけて、ナナメに倒れて、鼻血を流して  いた。僕の気配を感じたのか、弱弱しく顔をあげる。良かった。生きてた。男は、  割れたメガネレンズの奥から、こちらを見ると、今にも死にそうな声でこう言った。  「すみません、また、罵倒してくれませんか…」  何なんだろう、こいつは。  僕は、とりあえず、今日のビアガーデンをあきらめた。

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